平尾昌晃さんそして山口洋子さんと「五木ひろし」を世に送り出した作詞家・作曲家が二人ともこの世を去ってしまいました。五木ひろしさんは平尾昌晃さんの死去を知ったのはいつだったのでしょうか。舞台から恩師に届とばかりに熱唱。二人の大恩人に纏わる話を記事にしました。


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作曲・平尾昌晃 作詞・山口洋子さん「別れの鐘の音」


五木ひろし / 別れの鐘の音 投稿者 jrapaka4

1978年当時の画像ですが、さすがに歌唱力はすばらしいですね。
「作曲・平尾昌晃 作詞・山口洋子 歌・五木ひろし」と正に3本の矢と言ったところでしょうか。(最近の「3本の矢」はフェイクですけどね。)

新歌舞伎座で特別公演千秋楽で熱唱!!

天国の恩人・平尾昌晃さんへ五木ひろし追悼の「別れの鐘の音」熱唱した五木ひろしさん。

…涙ぬぐう場面も見てとれたらしい。

もちろん、「よこはま・たそがれ」「ふるさと」は欠かせない。
大阪での座長公演で、平尾昌晃さん作曲の歌を熱唱したという。

「よこはま―」は五木ひろしの人生を変えた1971年のヒット曲。

また、以前から千秋楽のために用意していたアンコール曲「ふるさと」「別れの鐘の音」は偶然にも平尾昌晃さんの作曲で飾ろうとしていた。

「歌手にとって作品との出合いがすべて。これほど、そう思ったことはありません」と語り、

歌手の五木ひろしさんの話
ただ驚いて、「まさか」という思いです。平尾昌晃先生と、(作詞家の)山口洋子先生のお二人が、五木ひろしを世に送り出してくださった。

僕が今日あるのも「よこはま・たそがれ」をはじめ、いい曲をたくさん作っていただいたおかげで、本当に大恩人です。

恩返しだと思って、歌い続けていきます。感謝の気持ちでいっぱいです。

五木ひろしさんは終演後に会見し、いつ平尾昌晃さんの死去を聞いたのかと記者に聞かれ、22日の公演が終了した午後8時半ごろに楽屋で訃報を聞いたという。

「ビックリしました。お元気だと思っていたので…」と、しんみり。

平尾昌晃さんと最後にお会いしたのは昨年のNHK紅白歌合戦の時だったと顧みました。

「会うたびに『よく頑張っているね』とおっしゃってくれた」とその時を思い出すかのように振り返り、「悲しい、寂しい思いでいっぱい」と大恩人の死を悼んでいました。


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作詞家・山口洋子さん死去

山口洋子さん死去はいつかと言えば、2014年9月6日(享年77歳・呼吸不全)でした。

56年、19歳の時に東京・銀座にクラブ「姫」を開店。

俳優、作家、実業家、スポーツ選手らが集うサロン的な店として知られた。

その傍ら、作詞を始め、五木ひろしさんの「夜空」(日本レコード大賞)や「よこはま・たそがれ」、中条きよしさんの「うそ」など、作曲家の平尾昌晃さんとのコンビで70年代の歌謡界を彩った。

また、石原裕次郎さんが歌った「ブランデーグラス」。
98年に日本作詩大賞を受けた山川豊さんの「アメリカ橋」。

小説は84年に「プライベート・ライブ」で吉川英治文学新人賞。
85年に「演歌の虫」「老梅」で直木賞。
 

「五木ひろし」の名付け親

「よこはま・たそがれ」の発売と同時に五木さんに4度目の改名に踏み切らせたのも山口洋子さんだったといわれる。

五木さんは1965年に「松山まさる」の名前でデビュー。

続いて「一条英一」、そして「三谷謙」と名を変えた。

読売テレビ系のオーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場したとき、審査員だった山口洋子さんがプロデュースを買って出た。

その際に売れっ子作家だった五木寛之にちなんで「五木ひろし」という名に改めさせたという。

「いいツキを拾おう」の意味もあった。

五木さんは山口洋子さんについて

「先生がいなかったら、僕の人生はない。いろんな作家の先生と仕事をさせてもらったけれど、山口先生は別格。恩人中の恩人。命の恩人」と感謝を込めていた。
 
当時、五木ひろしさんは、山口洋子さんから「都会的でありながら土のにおいもする、格好いい隣の兄ちゃんでいなさい」と言われたことが忘れられないという。

「挑戦すること、いい歌を継承すること」が山口洋子さんから常々言われたテーマだったと明かし、「この2つを胸に刻み込んで歌い続けるしかない」と遺言をいまでも守っているという。

平尾昌晃 死去いつ「五木ひろし」は知った? まとめ

平尾昌晃さんの死去はとてもつらい!

混沌とした1950年代~1960年代のロカビリーブームの華がなくなったと言ってもいいでしょう。

でも、平尾昌晃さんと一緒にジャイヴ、ジルバを踊った人たちは幸せだったのですね。


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