阿久悠の死因が騒がれる中、阿久悠が残した「3分の歌に凝縮された感動!」。阿久悠の若い頃にスポットを当てながら、阿久悠の詩に対する哲学とは何だったのか。そして阿久悠の死因をすべて知る残された家族は今、現在どのような生活をしているのか調べてみました。


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阿久悠(深田公之)さんのプロフィール

本名   深田 公之(ふかだ ひろゆき)
生年月日 1937年2月7日~2007年8月1日
出身   兵庫県津名郡鮎原村(現:洲本市五色町鮎原)
家族   父は兵庫県警巡査で転勤族
最終学歴 明治大学文学部卒
職業   作詞家・放送作家・小説家

阿久悠さんが残した作品は、なんとその数は5000曲以上。

昭和の名曲として名高い曲は、阿久悠さんの詩で感動が深まっている。

石川さゆり「津軽海峡・冬景色」
ピンク・レディー「UFO」
西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」
都はるみ「北の宿から」
など数えれば切りがないほどあります。

「怪物ヒットメーカー」の異名を持った阿久悠さん。

どうしてこのような詩をつくることができたのか、その原点はどこにあったのか、阿久悠さんの若い頃から探してみましょう。

阿久悠さんの生い立ちから

1937年の2月生まれ。
第二次大戦の真っ只中での少年時代といいでしょう。

戦争が終わったのは、阿久悠少年が8歳のときだった。

当時の娯楽といえば、ラジオ。

子供の遊びは野球というのが定番でした。

阿久悠さんもこの環境はまったく同じでした。

ところが、中学2年生の時「結核」にかかり、半年間休学することがありました。

このことがあり、以前とおなじようには運動ができなくなった阿久悠さん。

将来は体で勝負の「ガテン」系は無理と考え、小説家など身体を動かさなくてもいい仕事をと考えるようになります。

高校時代は、本をよく読み、映画館によく通い感性を強くしていきます。

高校卒業後は、明治大学に入学と同時に上京します。

在学中に実家から送金される生活費は、全て映画という作品の感動に消えてしまったといってます。

人より優れた感性はここで磨かれたといってもいいでしょう。

大学を卒業後は、1959年広告代理店・宣弘社へ入社。

その後、阿久悠さんは、コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年から放送作家としても活動するようになります。

如何せん、当時は副業禁止の時代でした。

会社にバレることを恐れペンネーム”阿久悠”を誕生させます。

それから、本格的に放送作家としての道を歩むために29歳の時に1966年宣弘社を退職することになります。

30代に阿久悠さん全国的な知名度に

30代を迎えると日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてかかわるようになり、日本全国にその名を轟かせるようになりました。




ピンクレディを生み出したのも、この時。


”テレビ”という日常性を最大限に利用して作り出す非日常性。

ピンクレディをプロデュースして「大化け」させた阿久悠さん。

怪物ヒットメーカー阿久悠さんの誕生です。

数々の賞を獲得

作詞家としても天才であるなら、プロデュースの天才でもありました。

1997年には、30年間も走り続けた阿久悠さんに、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞が。

また、その前1982年には、『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞するなど小説家としても活躍しています。

ところが、多忙極まる日常生活で、阿久悠さんの体を病魔が蝕んでいました。


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阿久悠さん死因は?

腎臓ガンです。

2001年9月12日に癌の摘出手術を受け、それ以降病身を押してまで活動を続けていました。

2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。

70歳でその生涯に幕を閉じました。

阿久悠さん資産は100億超!?

ある音楽関係者の話によれば、「阿久さんは“歌詞印税”だけで年間数億円を稼いでいました。

高額納税者番付でも常連。

静岡にある自宅や都内の仕事用マンションなどを含めると、総資産は100億円を上回るのでは・・・。

阿久悠さんの家族の現在について

多額の資産を受け継ぐ遺族は、妻の深田雄子さんと、ひとり息子の深田太郎さん。

1964年、職場結婚した深田雄子さん。

1年後、1965年に息子の深田太郎さんが誕生しました。

しかし、当時放送作家として多忙を極めた阿久悠さんは2~3ヶ月に1度家に帰るくらい。

実質的には女手一つで太郎さんを育て上げた、母子家庭と言ってもいい状況でした。

一人息子の深田太郎さんは、現在40代。

マスコミ関係者によれば、

「父親の七光りで通用するような甘い音楽業界ではありませんよ」

という厳しい世界。

今年は3月から月1回ペースで開催されているライブショー『阿久悠を唄う』に出演しています。

さまざまな分野のミュージシャンが集まって、阿久さんのポップス調の曲を中心に演奏するライブに個人で参加してます。

会場はスタンディングで150人規模のライブハウスだからそれほどの稼ぎにはならないでしょうが、深田太郎さんにとっては重要な音楽活動なのでしょう。

楽曲提供をしたり、バンドのギタリストとして活動はしているのですが、父”阿久悠”の偉大さには近づけませんね。

阿久悠 死因がヤバイ!! まとめ

阿久悠さんが作った昭和の歌は、時代を読み切った阿久悠さんの勝ちだったということに。

時代があり、環境があり、人の心があり、すべてが阿久悠さんを求めた時代だったのです。


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