松坂世代とひとくくりにされるほど時代を牽引してきた投手はそう多くはいない。右肩故障から手術から4月30日の1勝までは客寄せパンダと揶揄されながらのマウンドでの孤独な戦いだった。そんな松坂世代といわしめる多くのエピソードや友の声を少しだけみなさんに聞こえるように大きくしてみました。
松坂世代の「大輔」の名前は2代目だった
1980年の甲子園には、1年生から早稲田実業のエースとして活躍していた「荒木大輔」という超人気の投手がいた。
1999年にアメリカに渡り、インディアンズの2Aでコーチ修業をし、西武やヤクルトで1軍投手コーチを歴任して、野球解説者としても活躍していました。
現在は、北海道日本ハムファイターズ・ファーム(2軍)監督をしています。
この荒木大輔氏の大ファンだったのが、松坂大輔投手の母親(由美子)だったという。
1980年9月13日生まれの松坂大輔投手の名前が、荒木大輔の姿に惚れ、我が子に「大輔」と名付けたというのは今でも有名な話です。
1998年の夏の甲子園大会には55校の野球部員が聖地に足を踏み入れた。
その野球部員の中には「松坂大輔」の名前だけではなく、14人もの「大輔」がいたといいますから、「大輔」とい名は甲子園の神様になっていたのかもしれません。
松坂大輔投手の母親(由美子)さんは、
”自分のやりたいことは自分で決める”
という考え方を常に持っていました。
それで、「大輔」という名前も決めたのでしょう。
松坂大輔投手のお母さんの名前だけお知らせするのは、お父さんに失礼なので、松坂大輔投手のお父さんの名前は、松坂愉さんといいます。
松坂世代も37歳を迎え引退の足音が聞こえる
長年球界を牽引してきた“松坂世代”の選手たちではあるが、寄る年波にはどんな薬もなさそうだ。37歳はスポーツ界ではベテランの域にあることはたしかです。
森本稀哲、東出輝裕、新垣渚といった有名で大活躍した選手たちも現役をつぎつぎと引退している。
そんな中で、ベテランと呼ばれながらも現役でプレーするNPBの選手(松坂世代)は19人となっています。
<西武>
渡辺直人、上本達之、育成の木村昇吾、
<広島>
江草仁貴、梵英心、永川勝浩、
<巨人>
杉内俊哉、実松一成
<DeNA>
久保康友、G.後藤武敏、
<オリックス>
小谷野栄一
<ロッテ>
“松坂世代”はいません。
東北楽天→平石洋介ヘッドコーチ
1998年春夏の甲子園で、松坂投手擁する横浜高校と対戦したPL学園の元主将である平石洋介ヘッドコーチ。
平石洋介ヘッドコーチは松坂世代としてははじめてのコーチングスタッフとなっています。
松坂大輔投手には二度とも敗れたものの、とくに夏の延長17回の死闘は、いまも伝説の名勝負と語り継がれているのが平石洋介ヘッドの脳裏に焼き付いているという。
いつもすがすがしい気分になって、松坂大輔投手をリスペクトすることを忘れないという。
上重聡は松坂世代の広報部長だ!
現在はマスコミの中で生きている上重聡さん。
彼ほど、松坂大輔投手に憧れをもっている人はいないでしょう。
今でこそ、テレビの中でマイクを握る生活ですが、高校野球の名門PLのエースだったという貴重な実績をもつのが松坂世代で有名な上重アナウンサーなのです。
誰もが知る準々決勝で横浜と延長17回を戦ったPL学園の背番号1、上重聡はこう話していたことがある。
高校生当時の話として、春のセンバツで松坂大輔投手を見て、「こんなスゴいヤツがいるんだとショックを受けた」といいます。
とにかく、今まで体験したことのないスピードだった。
同じマウンドに立っていて、あきらかに差は歴然としていたという。
リベンジの舞台でPLは横浜と延長17回を戦い、敗れた。試合を決める一発を浴びた上重聡は、試合後、「松坂、松坂」と叫んで、同じマウンドを踏みしめた敵の背番号1を探していたという。
「近くに行って松坂に触りたかったんです(笑)。」
当時の上重さんだけでなく、松坂世代の球児たちは松坂大輔投手のことを、
「アイツがやると何でも絵になっちゃう。」
「松坂が出てきただけで、雰囲気がガラリと変わっちゃう。」
「一人だけ、オーラが違うんですよ」
「満足でしたよ。最後まで松坂と試合ができるなんて幸せ者でしょ。」
「マウンドに松坂の蹴り足の跡が残ってたんですけど、あの松坂と一緒のところで放ってるんだなって、そんな心境でしたからね」
と、松坂大輔投手に思いを寄せていたのがわかります。
松坂大輔と上重アナは今も仲良し
現在も食事やゴルフに出掛けるなど、交流を続けているが、上重アナは「生粋の負けず嫌い。どの勝負に対しても勝たないと気が済まない」という松坂大輔投手とのエピソードを公に話しています。
お台場でのボウリングでの秘話。
松坂大輔投手は投球に影響をさけるために、利き手を使わずに左手で投げ、上重アナは利き手の右でOK。
さすがに上重アナが圧勝したという。
ところが、松坂大輔投手は勝つまで引かなかったという。
結局、朝の4時まで20ゲームもピンを倒し続けた。
「負けるのがこんなに嫌な人はいない。もう一回、もう一回って。」
「でも、ボウリングぐらい勝たせてよ」と上重アナ。
この話の横で松坂大輔投手は友達を大切にする満面の笑顔がそこにありました。
松坂世代のプロ野球選手たちがなぜ・・・まとめ
松坂大輔投手の名前の由来から、最後はPLのエースとの笑い話まで、話題に事欠かない松坂世代の仲間たち。
言えることは、松坂世代に期待するファンはまだまだたくさんいます。
本丸の松坂大輔投手が1勝を重ねることで松坂世代の会話が楽しくなります。